がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

黒かわず句会 ~「ひかりの届く」部分の変更についてのいろいろ

黒かわず句会でした。

ちょっと今日は句評を書こうと思います。作者の許可を得たので作者名付きです。

鬼灯にひかりの届く配線図 四十九士

こちらが、ぼくの特選句でした。これは見た瞬間からこれしか無いと思ったくらい好きな句です。

季語は「鬼灯(ほおずき)」で初秋(兼題でもありました)。

この句は、「配線図」がすばらしいのです。現実ではなく、現実に反映させるための仕組みが句のメインになっています。鬼灯というのは植物ですが、その形から、昔から自然の提灯のようなイメージが浸透しています。なので、光を放つということ自体には意外性はありません。しかし、この句は光を放つための「仕組み」である「配線図」を使っている。そこがいいとおもいました。ぼくはこういう「仕組み」が好きなので、評価が甘くなると言うのはあるかも知れませんが、とにかく視点が面白いことは理解してもらえると思います。

さらに。ほおずきには宗教的要素があります。お盆に個人が帰ってくるときの道案内として備えたりするようです。このほおずきの仏教的なイメージと配線図の取り合わせには、曼荼羅のような印象もまといつきます。

図は図です。それ自体はただの記号的なインクの集まりみたいなものなんです。で、この図のとおりに組み上げて電流が流れることではじめて「鬼灯は発光する」。鬼灯が発光している様子を射影した図はいったん紙の上に落ちますが、それを見たものの脳内で逆再生されてふたたび鬼灯を光らせることが出来るんです。

句会では、この言葉の並びだと光が何処にあるかわかりにくいから

 鬼灯にひかり届かす配線図

 鬼灯にひかり届ける配線図

のほうがよいのではないか、という意見が出ました。それに対して、作者はこの作品を作ったときは、「鬼灯自体が発光するのはありきたりで、鬼灯に外から光を当てるような形にしたかった」。だから

 鬼灯にひかりの届く配線図

にしたんだ、と言ってましたが、この作者の自解はぼくはあまりいい解釈だとは思いません。光を外から当てるため、という解釈だとまず「配線図」ではなく「配線」になってしまう。「配線」自体、俳句の材としてはそれなりに面白いものではあるとおもうのですが、「配線図」の方がもっとおもしろい。そのうえで、鬼灯は自ら発光していいとおもうんですよね。だって図の時点ではまだ発光してない。発光するであろう仕組みそれだけを句で読んでいるから、これでいいんですよ。主役は配線図なのでそれ以外の要素であるほおずきは自ら発光するというありきたりなイメージで良いのです。

で、そのうえで「ひかり届かす」や「ひかり届ける」ほうがいいのかどうかを改めて考えてみたんですが、それでもぼくはやっぱり元句の方が好きだなと感じます。

というのは、「ひかりの届く」という言葉の並びにすることで「届く配線図」のうしろに「届かない配線図」が見えてくる気がするんです。

いろんな配線がある。上手く行ってない配線もあって、それは「鬼灯にひかりの届かない配線図」なわけです。届かせたいのに及ばない、というニュアンスがここには見える。いろんな失敗の配線図のなかに、ひとつだけ「鬼灯にひかりの届く配線図」がある。さっきいったように配線図は曼荼羅のようなものですからそれ自体が一つの世界ともいえます。ひかりの届かない無数の配線図の中に、偶然届く配線図がひとつだけ浮かび上がってくるというイメージは、まるで絶望的な終わりを迎える無数の並行世界のなかに、間違って紛れ込んだ一つだけ輝く世界のようです(すごいこと言いだしたぞ)

もうひとつ

 鬼灯にひかりが届く配線図

という形についても他の参加者からこちらはどうかという言及がありました。主格の「の」は「が」と置き換えられることがあり、意味的にはどちらも使えるように思えますが、ぼくのはこの「が」は強く感じる。ひかりが主役に見えちゃうんです。何はともあれ「ひかり」こそが届くんだと、そういう強調を感じてしまうんですね。配線図に対して上の言葉はあくまでも添える感じにしたくて、それがなくなってしまうような気がして、ぼくは「の」のほうが綺麗に感じました。これは言葉の受け取り方の問題なので正解はありませんが、ぼくの感性は「の」が好きです。

今回も大変面白い句会でした。