がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

中島みゆき『夜会 Vol.20 リトル・トーキョー』

今年も見てきましたので、初見の感想などを書いておきたいと思います(2回目が見られるかどうかは微妙なラインなのですが) ネタを完全にバラしていますのでご注意下さい。

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赤坂ACTシアター

バックストーリーはこんな感じ。

舞台は北海道の広大な土地に立つホテル。もともとは、外国籍の動物学者が地元の女性と結婚して手に入れた広大な土地にたつマナーハウスでした。祖父母から土地を継いだ獣医の父親とその妻は不可解な死を遂げ、その土地を相続したのは二人の姉妹、杏奴(あんぬ)と李珠(りず)。相続税が重くのしかかり、困窮していたところに声をかけたのは、その地をリゾート化しようとたくらむ大熊不動産屋でした。不動産屋はその地をかいとりホテルに改装するので、そこに自分の次男文男と結婚をして女主人として収まるように杏奴に提案をします。李珠は家を飛び出してアメリカに渡り行方不明。残された杏奴は涙を呑んで買収に承諾します。ただしホテルにするにあたって、条件を付けます。かつてのマナーハウスを継承する事務所をホテル内に設けること。その脇に、小さなステージ「リトル・トーキョー」をつくること。それは長女の李珠の帰りを待つための小さな舞台でありました。

……というお話しは、舞台では殆ど説明されません。ただパンフレットにものすごく詳しく書いてあります。このような複雑なバックストーリーは最近の夜会ではありがちなのですが、もっともそれを全く知らなくても舞台を楽しいもののする工夫がたくさんあるのでストーリーを読みこまなくてもそんなに問題はないんじゃないかなとは思います。

タイトルにもある「リトル・トーキョー」という舞台につくられた小さな舞台が、この舞台をこれまでにない夜会にしています。この舞台の上で歌われる楽曲がいくつかありますが、メタフィクショナルな構造としてこれは夜会という舞台の外に向かっても提供されます。この舞台の作用で、今回の夜会はかつての「既存曲の意味を問い直す」という機能を取り戻します。完全な書き下ろしで構成されはじめた2/2以来、初めてのことです。「舞台に上がって歌う」という行為によって、物語から少しだけ飛躍を許され、既存曲がマッチするような作りになっています。しかしながら完全にストーリーから飛躍した曲ではなく、かつての夜会がそうであったように、既存曲の歌詞が別の意味合いを持つような、そんな距離感で歌われるのです。これは昔からの夜会ファンにとっては大変嬉しいことでした(ぼくはもうひとつ、「物語で生まれた曲を別の物語で使って欲しい」という次のステップを期待しています。今回は「ウィンター・ガーデン」に通じるものがあるのでちょっと期待したのですがまだそこまでの実験は考えてなかったようですね。「六花」とか「凍原楼閣」とかハマる箇所がある気がしますが)

この舞台と合わせて、大きなポイントとなっているのは、共演している歌手の渡辺真知子さんです。渡辺真知子さんといえば「かもめが翔んだ日」が有名な歌手ですが、真知子さんの存在が今回の夜会に新しい彩りを添えているのは間違いないと思います。すごくよかったですね。ミュージカル俳優としてアメリカで大成功を収めた姉妹の姉、李珠として金髪で登場しますが、彼女の存在で舞台が華やかに明るくなるひまわりのような存在です。歌手としての力量ももちろんすばらしく、おひとりで歌う曲も素晴らしいですが、みゆきさんとふたりで歌う「思い出だけではつらすぎる」や、石田匠さんと二人で歌う「後悔は無いけれど」どちらも圧巻でした。真知子さんは表情が豊かなのがとても舞台映えしますよね(役にもぴったり合っています)。

「リトル・トーキョー」という楽曲を通じて、舞台の外にいる我々に語りかけてくるようなシーンがあって、かつてみゆきさんが「夜会は大衆芸能でありたい」(詳細うろおぼえ)といっていたものってこういうことなんじゃ無いかと思ったりしました。「元祖 今晩家」あたりから締めに一言二言を発せられるようになり、時に笑いが起きるようなこともありましたが今回は舞台中にもそういったシーンがあります。さらに、夜会のストーリーは重厚だったりするのですが、シーンごとにはコミカルなところも多く、数年前から振り付けにラッキィ池田さんが参加されるようになってからは、振り付けのあるシーンが多くなったように思います。それもまた20年の夜会の集大成という側面があるなんじゃ無いかと思いますね。

ストーリーについて言及しましょう。

キーとなるのはもちろん「リトル・トーキョー」でしょう。この名前の由来は、世界にある東京と名前が付くが東京を越えた幻の場所、というような場所がモチーフ。海外にあって日本を志向している場所でありながら、日本とは明らかに違う、奇妙な場所たちです。みんなの頭にある「帰りたい」気持ちが積み重なって立ち現れるかりそめの場所で、既存曲で言うと「パラダイス・カフェ」とか「ミラージュ・ホテル」に近いものがあると思いますね。

「帰る」というのはひとつのキーワードです。物語で「いつ帰ってくるの」という曲がいろんな対象に対して歌われています。まず杏奴はリトル・トーキョーを整備しながらずっと李珠の帰りを待っています。「待つ」は夜会として頻出のテーマですが、今回は「帰る」ことのほうにもフォーカスされている気がします。冒頭、杏奴が歌うのは「渡らず鳥」、旅立っていく人々の中、一人ホテルで帰りを待つ人生を過ごしている杏奴の境遇が表現されます。隣人として登場する及川は、ロックミュージシャンでしたが家庭の事情で家に「帰って」きて、リトル・トーキョーの舞台で歌うのを楽しみにしている存在です。彼がリトルトーキョーの舞台で歌うのは「BA・NA・NA」。成功者である及川にもいろいろな葛藤があったことをうかがわせる曲ですね。「帰る」ことにもいろんなかたちがある。

ひとつの感情やしがらみが複数の登場人物の上に、変奏曲のように現れてくるのも夜会の特徴です。

杏奴は大熊不動産の策略で夫の文男と結婚することになりました。文男は後ろめたさから杏奴を敬遠していますが、杏奴は杏奴で文男の気持ちが自分の方を向くことを待っています、この感情を「野ウサギのように」が代弁しています。「みんなあんたのせいだからね」。ラスト前の「月虹」も、月で虹が出来たことを馬鹿にせずに聞いてくれた、というささやかなエピソードを通じた寂しい愛情を描いた名曲でした。

いっぽう、文男には親しい芸者の梅乃がいて、梅乃は梅乃で文男を想い、大熊不動産の陰謀に気がつき、杏奴を救うために姿を変えてホテルに潜り込みます。姿を変えながら本当の自分は無くさずにいるということを「カナリア」という楽曲で、梅乃と李珠が歌っています(この曲かなり好きです)。

文男は押しが弱く、影の薄いキャラクターとして描かれていますが、兄の言葉に翻弄される様子は既存曲「紅灯の海」を歌うことでその葛藤が垣間見えます。ところで、この曲が「かもめよかもめよ」という2番から歌われたのは、渡辺真知子さんへの敬意もあったのでは無いか、と思ったりしました。

クライマックスで歌われる「放生」という曲があります。仏教の善行のひとつで、捕らえた魚や鳥を放してやること、という意味です。これは字義通りに、ホテルでかくまっていた小雪という山犬(これはおそらく山犬では無く絶滅したはずのニホンオオカミという設定だと思いますが)を父親の元に返した、という意味でもありますが、ホテルという場所に捕らえられていた待つ場所としてのくびきにとらわれているひとたちを解放してあげるという意味もありそうです。遠くにはホテルの老執事もそこにあるように感じます。物理的な崩壊をむかえることによって縛られていたものから解き放たれる、というのは雨で地下水道が川に飲まれる「橋の下のアルカディア」、津波に襲われる「海嘯」、過去とともに氷山に飲まれていく「ウィンターガーデン」などにも通じるものがあるように思います。

ヒトと生き物の関係についてもここにはひとつテーマがあるように思います。「ねえ、つらら」という比較的説明に寄った楽曲がありました。これはつららという山犬を、密猟者が狙っているところから、匿って世話をした方が良かったのかと逡巡するシーンの曲です。ヒトがヒトとして上から動物をかくまうことが正しいのか。ヒトがなそうとする危険ならヒトが介入しても仕方ないのか。夜会では動物がヒトの気持ちを受けつぐというモチーフがいくつか存在します。「ウィンターガーデン」の犬、「橋の下のアルカディア」の猫、みなヒトと自然の間にあって、ヒトのエゴも映し出すようなキャラクターとして描かれてきたように感じます。

今回はクライマックスのシーンが比較的長く、インパクトのある曲を一つだけ歌って締めるという形になっていません。なので、ちょっとラストがもたついている印象もありました。いったん出て行ったはずの小雪が事情説明に戻ってくるのもそうですし、杏奴も持っていた感情を明かしてから終わりまで時間があり、「放生」を二回歌っているので、最終曲に向かってもりあげていくような構造にはなっていません。どちらかというと、その前の登場人物それぞれが抱える気持ちを反映した「二雙の舟」や、全員がつかのまの幻に耽溺しているかのような「リトル・トーキョー」の全員参加シーンの方が印象に残っています。これもまた最近の夜会とは少し違う印象を受けました。

……とりあえずはそんなところでしょうか。

夜会に行った後はたいてい、詰め込まれた輻輳するテーマ立ちに翻弄されてしばらく茫然自失として、こういった文章をどう書いて良いのかも考えあぐねてしまうのですが、今年も見事にその状態に陥りました。まだまだ気づくことはたくさんありそうですが、ひとまずファーストインプレッションとしておいておきます。