がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

九条俳句不掲載訴訟の俳句は政治的か?

まえにもどこかでつぶやいた気がするんですが、政治的な内容を含むといろいろ面倒なことが多いかも知れませんが、判決が出たのでちょっとだけ書いておきます。俗に「九条俳句不掲載訴訟」といわれてるやつです。

梅雨空に「九条守れ」の女性デモ

この句が、俳句の会では秀句とされ、それまで秀句は公民館だよりに載るのが定番だったのを、市役所職員の勝手な判断で不掲載になったことを作者側が問題視しして訴訟を起こした、という件ですね。

たぶん市民運動としての論点は「政治的メッセージを発している作品の公的メディアへの不掲載が妥当かどうか」なのでしょう。普通に公的な検閲になってしまっていると思うので不掲載には反対であって、訴訟が住民側勝訴で終わったこと自体は歓迎しています。

けれど、前半部分の仮定には賛成しません。ぼくは作品は作者から独立した存在になっているというスタンスで、かつこの作品は「政治的な題材を扱っているが、賛否を含んだ政治的メッセージの発信ではない」と解釈してます(もっとも、だからこそ、さいたま市はより罪深いと思うわけですが……。政治的メッセージを発する作品であっても不掲載はいただけないが、そもそもメッセージでなくただの景色描写であってそれで不掲載となるともはや完全にアウトでは、という解釈ですね)

これは作者すらそう思ってないんじゃないかとも思うので、そこがちょっと違うんですよね。市民団の経緯を見ると、作者には「九条守れ」というメッセージを句に含ませたい気持ちがあるようにも思います。しかし、作者の思いとは関係なくこの俳句はそういう形になっていないと思うんですよ。「九条守れというデモ」は、ひとつの光景であって、確かにその光景自体には政治的なニュアンスがある。そういうニュアンスがあるからと言って、それをそのまま作者の意見としては読み解くべきではない。デモはただの食材で、それは作品として成立するかどうかで取捨されるべきものです。なので、ぼくにはこの句はそもそも政治的メッセージを発していないと感じたんですよね。ぼくにとっては作者不在の方が俳句の評価は高いです。

なので、ぼくの興味は「梅雨空」と「デモ」を取り合わせているところに俳味があるかどうかというところにあります。その視点で、この俳句は悪くないんじゃ無いかと思いました。個人的には「すっきりしないというニュアンスがインストールされている梅雨空」と「世論を二分するようなもやっとした論点に関するデモ」はわりと近い気がするので、季語をもう少し遠ざけたいと感じるのですが、後者の「世論を二分するようなもやっとした論点に関するデモ」が俳句として使える情景・題材であることを発見したところは評価したいわけです。

なお、この「世論を二分するような」はさいたま市が不掲載を決めたときのロジックでして、それ自体がぼくはこれを俳句として成立させてる要素だと思っているのでちょっと面白い構図です。いま成立と書いたのはもちろん「政治的メッセージを伝えるのに使える俳句」という意味ではなくあくまでも「文芸としての俳句」を成立させるという意味です。

(ところでぼくのロジックだと俳句に作者はいなくなってしまうので俳句の不掲載の訴訟の主体は一体なに、みたいなことになってしまうんですが、まあ句を作った方は句の権利者ではあるとは思っているので、権利者としての掲載要求という形で自分の中では納得しています)

どんなものでも政治的なニュアンスはつくれるし、受け手側次第でそんな者は簡単に変容します。俳句はどういうものかだって自分が正解だとは思ってません。結果的にこの俳句を作者のメッセージとして読み取ることも否定は出来ないですし、そういう場もあることでしょう。さらには、それに過剰に反応してしまった事件の成り立ちも納得は出来ます。が、今回の記事は、ぼくにとっての俳句の面白さと微妙にずれたところで戦いが始まってるよなーということのあれこれをまとめておきたかったのが動機です。