がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

俳句における「柿の種」の乗っ取り行為について

なんだか不穏なタイトルを付けてしまいましたが、たいした話では無いです。

先日の、黒かわず句会で、お題に「種」読み込みというのがありまして、そこに「柿の種」をつかった句がいくつかあったんですね。ぼくがうっかりその句にあった「革ジャン」という単語が冬の季語であることを読み落としており、これは「柿」が季語で、実はお菓子では無くホントにに「柿」の「種」のことをいっているのか? だとしたら柿に季語感は無いな、とあらぬ方向に解釈をしてしまっていたんです。

この誤解自体はまあ、ぼくのただのミスなのでどうでも良いんですが、ちょっと考えなければならないのは「柿の種」です。現代においてこの単語は、いわゆるお菓子の柿の種を指すと解釈できます。じゃあ、「柿」の「種」そのもののことを言おうとしたらどうしたらいいのでしょう。これはもはや無理ではないでしょうか。コンテキストで分かるでしょ、という考えもあります。たとえば「柿の種を植える」と書けば、文意としてこれをお菓子だとは思わないでしょう。

でも、解釈としてお菓子とは思わない、のは確かなのですが、お菓子のイメージは残ります。この文章を普通に解釈すれば、植物としての柿の種を植えたと言うことになりますが、文字として【柿の種】と書かれてしまっている以上、われわれの頭にはどうしてもお菓子のイメージが何処かに残ります。日常会話であれば、このイメージが拭えなくても別に支障はありません。言葉を尽くせばすぐにイメージ以上に正しい解釈たどり着けます。しかし、俳句という17文字でそのイメージを完全に拭い去るのはかなり困難と言わざるを得ません。コンテキストを狭めても絶対お菓子のイメージがそこにはまとわりつきます。まとわりつくならそれは俳句の鑑賞に影響します

さきの言葉で言えば、「柿の種を植える」を句として使うのであれば、このお菓子のイメージをどうしても意識しないとダメで、たとえばお菓子の柿の種に近しい言葉を取り合わせると、ちょっと「ついている」感じはどうしても出てきてしまうと思うんですよね。「植物の柿のことを書いてるんだからついてない」と言いたくなりますが、実際、読み手がイメージしてしまう以上、無視してください、とはいかないのです。

よって、いまや「柿の種」はもはやお菓子に言葉を完全に乗っ取られ、もう元の意を純粋に表す句として使うことは出来ないと考えています。17文字とはかくも不自由な長さであることよ……。

あ、まさか誤解しないとは思いますが、だからダメだといっているわけではありません(そんなわけない)。そうなっている状況をおもしろいな、とおもっております。他にもこういう単語、ありそうですね。