がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

『愛と法』(監督:戸田ひかる,2018)

行ける日がほとんどなかったので無理やり時間を作って、渋谷ユーロスペースで大学時代の友人である南弁護士が主演をしている『愛と法』を見てきました。

aitohou-movie.com

良かったです。

南弁護士は、同性愛者であることを公表し、パートナーである吉田弁護士とふたりで弁護事務所を構え、そのことを本にまとめたりしており、知る人ぞ知る存在でして、この二人に密着したドキュメンタリーが本作『愛と法』です。最近になっていいことわるいこといろいろなことがあって、LGBTという言葉もすっかり人口に膾炙してきた感があります。南弁護士の名前が知れ渡ったのも、同性パートナーとともに弁護士であるという特異点が馴染みのない人にも伝わりやすかった点があると思いますが、このドキュメンタリーのテーマはLGBTではありません(正確にはその一部ではあるが)。

タイトルが表しているように、このドキュメンタリーは彼らの取り組んでいるいろいろな題材を通じて「愛」と「法」を浮き彫りにしようとしています。とくに多く時間が割かれているのは「家族」です。家族というのはなんでしょうか。それは法的にも規定されていますし、もっと情緒的な意味でも我々の心のなかにそれぞれの形があることでしょう。が、法のなかで歪められてしまっている人々が、少なからずいます。二人の弁護士はそれに取り組む。そのなかで彼ら自身の抱えている「愛」の形もあからさまになるし、ぼくのような能天気な鑑賞者には考えがおよんでいない、愛を歪められてしまっている人たちも明らかになってくるんです。

家族の形というのは作中でも色んな形で言及されるので、非常にわかりやすく、そして考えさせられますが、もうひとつ、別の視点を感じた部分がありました。このなかに、「君が代不起立裁判」というのがあります。この事件で不起立で減給処分となった教師の言葉を聞いて、ひとびとが大切にしているもの、というのは本当に多様だということを感じます。この方にとって、「君が代を歌う」ということは本人の人権にまで及ぶ大問題なわけです。この裁判に関してはぼくの観測範囲であってもけっこう賛否の中でも否に傾いている人が多い感じを受けています。実際ぼくもこの方の考えを否定する気はないものの、消極的な意見しかもっていません。なぜそういうことになるかというと、ようするに君が代を歌うことが人権に関わるという感覚が僕の中にない、ということに(おそらくは)つきます。しかしながら、それをもって、他人がこの問題を真剣に捉えていることをないがしろにしてはいけない。今回の映画を見ても、その意見自体にはぼくはやはり共感は覚えません。覚えませんが、行動原理について知識として理解をすることはできました。「君が代不起立裁判」というのはこのドキュメンタリーの中では一番「愛」よりも「法」の話に近いです。しかしながら、「ぼくたちが感じていること」を尊重していこう、という意味において、その根底にはやはり「愛」のエピソードなんだろうなと思わせます。「ろくでなし子」事件にも同じことが言えます。こっちはいくぶん僕の中でも問題意識として親しいものがあったぶん共感から入れたところではあります。これを下らないと思うこともひとつの思いでしょうけれど、彼女はくだらなくない価値観の中で生きていて、それで戦ったわけですから、下らないと「思ったから」と言ってそれをもって彼女の行動は否定する訳にはいかない。

共感から入ることは大事ですがそれは何かの正しさを担保しない、というアタリマエのことを思い直した次第です。

ところで……ぼくはふだん映画どころか、ドキュメンタリーもあまり見ない人間ですので、この映画が、テーマそのものの重さから切り離された「ドキュメンタリー」作品として優れているかどうか、あまり自信がありません。馴染みのある友人が主人公となっているので面白かっただけかもしれません。空気を読む、のエピソードのあとに阪急電車のアナウンスをさしはさむところとか、演出がうまいなというところは各所に感じましたが、もしかしたらこんなものはドキュメンタリーでは当たり前かもしれません。

実際、ここに取り上げられてない、どんな人にとっても「愛」について、何か問題を抱えていることはよくあることですし、それをとりあげていけば「法」はともかく「愛」についてのドキュメンタリーとしては成立するんじゃないかとさえ思います。そのへん、映画の文法はぼくにはよくわからない。しかし、まあ、体験としての映画はぼくにとって、とてもよい体験だった、これだけは言えます。汎化する気もありません。気になった方はぜひ映画館に。

ところで、ぼくがいちばん感情を動かされたのは、南弁護士がミュージックビデオを作ると言って(というかそれじたい、何だか当たり前のように言っているけれど、ふつうはミュージックビデオとか作りませんから)港の桟橋でキーボード弾いてる姿が出てくるんですが、その様子があまりにもおかしくて映画館なのに思わず声に出して笑ってしまうところでした。そうだよ、彼は昔からそういう人間でした。吉田弁護士がその様子をちゃんと受け入れているところが映されていて、なるほどそういうところだよね、なんてことを思いました。

追記: 翌日誤字を修正するために上の文章を読み返していて、もうひとつ印象的だったシーンがあったことを思い出したので追記します。 南弁護士が憲法について市民講座のようなところで話しているシーンがあります。その終わりに、南弁護士に『家族』について、食ってかかっているおじさんの姿が映されています。法的な意味で規定されている家族の考え変えたについて、南弁護士の見解は違うのではないか、というようなことを主張しているように見えました。南弁護士は半ばあきらめたようにおじさんを諭します。当事者からしたらまたかというところなんじゃないかと思います。最後には施設の管理者から退出を促され、しぶしぶ引き下がったように映っています。

この方も自分の中の大切な家族の形なにかもっていて、そのありかたと南弁護士が言う家族とのギャップをなんとか埋めようとしているように思えます。結果的にそれが一方的な押しつけのような言論になってしまっていたのだとしても、それは技巧的な問題であって、本質は家族のあり方について何を大切にしているかの違いそのものはそことは独立して存在するのではないかと思います。ぼく自身はこの件については南弁護士の言っていることに全面的に賛成しますが、別のジャンルではそうではないかもしれません。そのとき、ぼくはその別のものの正しさを自分の中で説明できているんだろうか。そして、ぼくはこのおじさんと同じものを何処かに持っているような気がしてなりません。