がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)

ノーベル賞作家、カズオ・イシグロの作品です。先日読んだ『合成生物学の衝撃』で本作が印象的に引用されているので手に取ったもの。カズオ・イシグロ自体はずっと気になる作家ではありましたが、これまで読んでいなかったので、ちょうどいい機会だなと思いこのつながりに乗っかってみたわけです。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

「介護人」を名乗るキャシーの一人称視点での語りによって物語は綴られます。ヘールシャムと呼ばれる片田舎での少女時代のことであり、そこにはある歪みがあることが次第にわかってきます。このお話はミステリとSFの題材を用いてはいますが、ミステリーとしてもSFとしても描かれてはいません。たとえば、SF的なギミックにつながる語り手のかかえる謎は、比較的はじめのほうで明かされますが、大したイベントとしては書かれていません。その後も、ともすれば派手な展開ができそうな題材なのに、抑えたトーンで描かれるのは、ただ語り手を取り巻く小さな世界のみ。個性的な仲間たちとの日常や謎めいた婦人マダムとの邂逅などイベントはたくさんありながら、どれもが大きな展開に至ることを避けているかのような抑えた筆致で徹底しているのです。それでいて読み終えたあとの重量感がすごい。読み終えても、本書のすごみというのはなかなか切り出して抽出しづらいものだなあと感じます。

印象に残っているのは、座礁した船を見るため、語り手たちが車を借りて出かけるシーンです。私たちはそれぞれがそれぞれに生まれ落ちて何かを目的とするわけでもなく、日々をすごしていきます。何事もない、というわけでもない。しかし、世界を揺るがすほどの大事件でもない。しかし、そのささやかな事件は謎に包まれている。船はどこから来てどうやってここで座礁したのか。全くわかりません。語り手たちはこの船を見ることができた、ということで何かの安らぎを得ています。わたしにわたしをつなぎとめているのは、座礁した船の錨のような存在なのかもしれません。