がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

PCL から .NET Standard への変換をした

人狼GM サポートのアプリをずっと前に公開してまして、それは普通に Android 用に Java でつくってたんですが、iOS 版もつくりたくて Xamarin で作り直してたんですね。ただ、仕事の合間にやっていたせいで、数ヶ月に一回とかのすごい遅いスピードで触ってたせいか、ひさしぶりに開くたびにビルドが通らない、を繰り返すハメに……。

最近また開いて、Nuget で Prism やら一式を新しくしようと思ったら、やっぱりうまくいかない。 Xamarin.Forms が 3.3 にアップデートできないとか言われます。よくわからないなーとおもって、調べてみるとどうも最近 PCL(Portal Class Library)は非推奨になって、 .NET Standard が主流なったらしい。なんということだ。ということで、移行を試みることにしました。

以下のサイトを参考にします。

montemagno.com

ダイナミックにプロジェクトファイルの中身を削除して、Package もごそっと移動します。Nugetのパッケージ情報ってプロジェクトファイルに入るようになったんですかね? 対して長い間触ってなかったつもりも無いんですが、もはや浦島状態ですよ……。

Prism もあたらしくしたところ INavigationAware のインターフェースが微妙に変わっていて、これも修正した。

けど、うーん、PCLベースで書かれてるライブラリがあってコイツが動くのかよく分からない。うーん。

尻手駅が好きだった

もう10年くらい前になるのかな、仕事で立川に通っていたことがありまして、いろいろルートはあったんですが、着席して行けるってことで、南武線を川崎から立川まで乗車していました。長い乗車だったので、本を読んだり、居眠りしてもまだ辿り着かず、毎日のようにお尻が痛くなったものです。

立川での仕事が終わって、南武線とは疎遠になったのですが、先日すごく久しぶりに、武蔵小杉と川崎の間を南武線で移動することがありまして、いろいろな情感が甦ってきましたよ。タイトルで既に出オチしておりますが、立川からの帰りの電車の尻手駅が好きだったんです。

尻手駅は終点川崎駅のひとつ手前の駅です。浜川崎線という工場地帯へ行く電車の接続駅でもありまして、朝の時間帯は見慣れぬ色の電車(すぐに見慣れましたが)が向かいに止まっていたりしました。参画していたのが、炎上とまではいってませんでしたがままならないプロジェクトでありまして、たいてい立川を出るのがそこそこ遅くなります。南武線は通勤者もおおいですが、武蔵小杉当たりから減っていき、終点までずっと乗ってる人はそこまでいません。

それで、川崎駅は賑やかで雑多な街ですが、そのひとつ手前のこの尻手駅は、びっくりするほど静寂の駅なんです。そして、高架の駅なんですね。夜、ひとが少なくなった車両が、尻手駅に止まると、あたりは殆ど闇に覆われていて、駅だけがぼうっと光ってるんです。実際に駅を降りればそれなりに商店や飲み屋なんかがあるのでしょうけれど、駅ホームから見たら、それらはみーんな闇の底に沈んで黙り込んでいる。車両に乗り合わせた人々もこのときだけはやけに人らしくない。みんな本当に生きているのか。自分だけが生身のまま、なんだか世界の底に来てしまったような気持ちになる、そんな駅でして、この雰囲気がたまらなく好きでした。

先に書いたように、朝は工場地帯へ続く支線に、少なからぬ人を小さな車両に詰め込んで発車していくのがホーム向かいには見えて、全く様子が違います。そのふたつの顔もまた良かったのです。

この駅は尻手という妖怪にいそうな謎の名前ですが、この駅の手前に「矢向」という駅があります。ぼくのなかで、尻手駅の雰囲気のひとつは、この手前の矢向という名前の方に引きずられて、記憶の中で少し混乱さえありました。矢向はことばで聞くと「やこう」ですから、どうしたって夜行バスの「夜行」を思い浮かべます。闇を漂う一塊の光の島になんだかふさわしい名前だと思いませんか。まあ、実際は尻手なんですが。

そうそう、先日は久しぶりに行ったと書きましたが、列車が止まってわくわくしながら周りを見わたしてみたら、大きなスーパーの看板が出来ていました。暗闇の中にただようひとつの島みたいな感覚は激しく薄れてしまっていて、たいへん残念でした。もっとも――あのころ好ましく感じていた駅の孤独な感じは、「矢向」の件で分かるように記憶の中でだいぶ美化されていて、きっとこのスーパーがなかったとしても、再訪したらがっかりしていたんじゃないかなぁ、なんてことも思ったりしました。

俳句における「柿の種」の乗っ取り行為について

なんだか不穏なタイトルを付けてしまいましたが、たいした話では無いです。

先日の、黒かわず句会で、お題に「種」読み込みというのがありまして、そこに「柿の種」をつかった句がいくつかあったんですね。ぼくがうっかりその句にあった「革ジャン」という単語が冬の季語であることを読み落としており、これは「柿」が季語で、実はお菓子では無くホントにに「柿」の「種」のことをいっているのか? だとしたら柿に季語感は無いな、とあらぬ方向に解釈をしてしまっていたんです。

この誤解自体はまあ、ぼくのただのミスなのでどうでも良いんですが、ちょっと考えなければならないのは「柿の種」です。現代においてこの単語は、いわゆるお菓子の柿の種を指すと解釈できます。じゃあ、「柿」の「種」そのもののことを言おうとしたらどうしたらいいのでしょう。これはもはや無理ではないでしょうか。コンテキストで分かるでしょ、という考えもあります。たとえば「柿の種を植える」と書けば、文意としてこれをお菓子だとは思わないでしょう。

でも、解釈としてお菓子とは思わない、のは確かなのですが、お菓子のイメージは残ります。この文章を普通に解釈すれば、植物としての柿の種を植えたと言うことになりますが、文字として【柿の種】と書かれてしまっている以上、われわれの頭にはどうしてもお菓子のイメージが何処かに残ります。日常会話であれば、このイメージが拭えなくても別に支障はありません。言葉を尽くせばすぐにイメージ以上に正しい解釈たどり着けます。しかし、俳句という17文字でそのイメージを完全に拭い去るのはかなり困難と言わざるを得ません。コンテキストを狭めても絶対お菓子のイメージがそこにはまとわりつきます。まとわりつくならそれは俳句の鑑賞に影響します

さきの言葉で言えば、「柿の種を植える」を句として使うのであれば、このお菓子のイメージをどうしても意識しないとダメで、たとえばお菓子の柿の種に近しい言葉を取り合わせると、ちょっと「ついている」感じはどうしても出てきてしまうと思うんですよね。「植物の柿のことを書いてるんだからついてない」と言いたくなりますが、実際、読み手がイメージしてしまう以上、無視してください、とはいかないのです。

よって、いまや「柿の種」はもはやお菓子に言葉を完全に乗っ取られ、もう元の意を純粋に表す句として使うことは出来ないと考えています。17文字とはかくも不自由な長さであることよ……。

あ、まさか誤解しないとは思いますが、だからダメだといっているわけではありません(そんなわけない)。そうなっている状況をおもしろいな、とおもっております。他にもこういう単語、ありそうですね。