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中島みゆき「僕たちの将来」 〜どこまでもつづく荒野と日常

中島みゆきの曲は常備薬みたいなものだと思ってるぼくですが、このところの仕事の不条理さから最近ひさしぶりにひっぱりだして聞いてリピートしてしているのが、アルバム「はじめまして」です。このアルバムはそれ自体結構挑戦的なアルバムで、ひとつひとつ取り出しても長文がかけてしまいそうな名曲揃いなんですが、今日は「僕たちの将来」を起点に、「日常」についての旅に出てみたいと思います。

いまやうちの娘が幼稚園の音楽会で歌うほど有名になったみゆきさんの「糸」ですが、この曲が人口に膾炙するきっかけとなったのは、ミスチル桜井和寿氏が中心となって結成されたBank Bandの1stアルバム「沿志奏逢」です。このアルバムで、「糸」と一緒に収録されたのが「僕たちの将来」でした。「糸」が万人受けのする曲であったのに比べ、「僕たちの将来」はみゆきさんのファンでもあえて取り出してカバーするとは誰も思わなかったんじゃないかとおもいます。このアルバムがきっかけになっていろんなアーティストが「糸」をカバーするようになりましたが、「僕たちの将来」についてはその後他のアーティストがカバーしたというのは聞きません(ちなみに、ぼくはいちどだけBankBandバージョンの「僕たちの将来」を路上で若者が歌っているのを聞いたことがありますが)

この曲は、ものすごく近いものを描くことで、ものすごく遠いものを描きだしている傑作です(断定)。

舞台は二十四時間レストラン、一組のカップルが会話をしています。おたがいにままならない日常にもやもやしたものを抱えながら、それを口にすることを恐れ、ごく私的な二人のエピソードを蒸し返すことでその恐れから目をそらします。ここに描かれているのはどこまでも日常であって、その不安は二人の関係性からしか生まれてこない。しかし、その日常の延長には、確かに「将来」があるし、いまなお、世界の何処かでは二人の私的な関係以上に深刻な、争いごとが起きています。それでも二人は、もっと身近な過去「さっき抱き合った宿」とか、二人の関係性が始まったもう少し前のこと「君が飛び込んできてくれた夜」のことを蒸し返すことで精一杯です。将来だって互いのアルバイトの予定程度の先のことしかここには見えてきません。それ以外のことは、ただ漠然とした不安となって世界に揺曳している。

でも、それってまさに今も昔も、ぼくたちのこととと変わりないんじゃないでしょうか。少なくともぼくはそうです。ネットニュースで凄惨な事件を見つけて憤慨はするものの、日々の生活の中でそれらは霧散してしまい、この半径数歩の世界の中でじたばたしている。それでもぼくたちは世界とゆるやかに地続きでつながっていて、この生活は決して自分だけで完結していないんです。

中島みゆきという歌手はこの「日常」の近さと、そこからゆるやかに、そしてはるかかたなまでひろがっている世界の「遠さ」を、いろんな方法で描いています。まずはじめに思いつくのが「誰のせいでもない雨が」という楽曲です。この曲は、学生運動をテーマにしていると言われています。学生運動の中で打倒されてしまっていた思いとか、主義主張は日常から乖離した「社会的な言説」ですが、その一方で、われわれは日々を生きていく必要がある。雨というのはその日常の象徴です。

誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている

近年の歌は社会派と(場合によっては批判的な言説としても)言われることが多くなりました。しかし、根底を流れているものは同じように思います。

ペルー日本国大使公邸占拠事件をあからさまに下敷きにして、主義主張をもっともストレートに出したと思われる歌「4.2.3」の出だしはこうです。

食べてゆくための仕事にひとやすみして 私はTVをつけた

「僕たちの将来」で戦争を映し出すのは、さらにそれを遠ざけるかのような「青の濃すぎるテレビ」(青が濃いのは、ただ安物であることを言っていてつまりその機械自体が日常の中の背景にあるただの受信機であることを強く意識させる)です。そう、ぼくたちは「食べていく」必要があるのです。

「月はそこにいる」で遥か上空から月に見透かされるのもまた日常です。

日々の始末に汲々として また一日を閉じかけて

「空がある限り」では私の暮らす街が空を伝ってゆるやかに「あなたの街」と接続されます。あなたの街とは「銃で砕かれた建物や、鉄条網が視界」を覆っている街なのです。

ぼくたちは日常を恥じる必要もないでしょう。ただ、その日常が、どこかぼくたちとはちがう日常と地続きであることを忘れない限りは。