がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

「風の笛」をたずさえて ~ささやかによりそうものたちへ~

「風の笛」はアルバム『常夜灯』の一曲です。

中島みゆきの歌には人間のもついろんな性格の側面を取り上げ、それを丁寧に扱ってくれることがよくあります。この曲は、誰にでもあるであろう「言いたいことをつい飲み込んでしまう」行動を、肯定してくれる曲です。

ぼくは『真夜中の動物園』あたりから、みゆきさんは自分の「らしさ」をあえてひとつだけ尖らせて曲を作ってるように感じることが多くなりました。毎年アルバムを出していくペース走り続けてきた歌手ですから、おそらく手癖で楽曲が書けてしまうこともあるでしょう。正直、ファンとしてはそれでも実は十分楽しめるわけ何ですが、その楽曲の「らしさ」をあえて過剰な形でいじくりまわすという試みをし始めたように思うのです。

「風の笛」でいえば唐突な口語口調です。

ええかげんにせいよ たいがいせいよ

という叱咤が入りますが、この口調はこの曲想そのものからは導かれません。おそらくはいくらでも綺麗事めいて作ることが出来たこの曲を、地に足に付いたところまで引きずり降ろすための、過剰な口語体がここにあるように思います。

「風の笛」では「何も言わなくてもいい」「代わりに風の笛をおまえにあげよう」と相手に寄り添う曲ですから、実際はこの叱咤の言葉だけみるといささか強すぎるようにも思えます。しかしながら、これは気の置けない仲間に対して黙り込む理由をたずねあぐね、結果的に粗雑にかけるしかなかった言葉として、二回繰り返され、おまえがおまえの意志で黙るなら、仕方が無いという、寄り添うものとしての覚悟を演出するためのことばです。なので、これは動かないのです。

さて、このブログの中島みゆき関係の記事として毎度のことですが、今回も旅に出ることにします。「風の笛」を出発点として、「よりそうもの」の消息を辿ります。

「風の笛」における寄り添うものは性を持ちませんから、家族であっても友人であっても恋人であっても、歌い手とそれを聞くものの関係であっても成立します。それを恋人の関係に少しだけ寄せた歌が「私の子供になりなさい」です。「あなたが泣くときは 私は空を見よう」。このセンテンスが出てくるとそこから連想されるのは、ヒット曲「空と君のあいだに」です。「君が涙の時には 僕はポプラの枝になる」この曲は、犬の視点で描かれている曲だと言われています。直接のコミュニケーションができない関係において、寄り添うものは寄り添うことに価値があります。

寄り添うものは見守るものです。この動物と人間の関係は夜会「ウィンターガーデン」と「橋の下のアルカディア」でも顕著です。前者は犬、後者は猫、どちらも寄り添うものとして約束に縛られてしまったものたちでした(そういえば、「海嘯」で妻子を日本人に殺されて言葉を失った医師に寄り添うのは大きな犬でした)

そもそも中島みゆきの歌は、とくに近年、一歩引いてリスナーの感情を肯定するような曲想が増えてきているように感じます。たとえば、コンサートツアー『一会』で歌われていた「MEGAMI」は苦しんでいる聞き手をそっと「許す」曲です。「飲みこみすぎた 言葉が多過ぎて肺にあふれて 心をふさぐ」というセンテンスは、「風の笛」の「言えないこと飲んで溺れかけている」を思わせます。「背広の下のロックンロール」も曲調こそ明るいですが、隠している感情に理解を示す曲という意味で「風の笛」と同じニュアンスを感じます。

ところで、寄り添う、という言葉そのものの曲があります。「寄り添う風」。この曲は「相手を傷つけてしまうために離れていく」という、これまた中島みゆきによく見られるモチーフの延長としての寄り添うものなので、ここまでにあげてきた曲とは寄り添うものとしては少しことなる側面を持つように思います。このモチーフはまた別に追いかけてみたいと思います。