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がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

中島みゆき「LADY JANE」あるいは、第三者の視点として描かれた飲食店について

現時点での最新のアルバム(昨年)である『組曲』に「LADY JANE」という歌があります。『組曲』の最後を締めるのにふさわしい大曲――ではなく、組曲いつまでも終わらないとでもいいたげな、意図的にかなり軽く作っている曲であるような印象でした。従ってこの曲にはスルメのようなじわじわ良さが立ち上がってくるような味わいを感じます、初めて聞いたときにはあまり印象に残らなかったのですけれど。

というわけで、この記事は「LADY JANE」を起点として、中島みゆきの世界の旅に出ようと思います。

さて、この曲の舞台であり、堂々としたタイトルにもなっている「LADY JANE」は、下北沢に今も実在する店舗であり、かつてはみゆきさんも通っていたといいます。ファンの間ではすでに聖地巡礼の店となっているようです。この歌は妙に客観的な視点でさまざまな描写をしながら、その合間に、語り手の主観としての感情を「軽み」とともにちりばめています。その感情は「好きだった男」だったり「街が変わっていく」ことだったりと、人は愛だけでも日々の仕業だけでも生きて行くには足りない、といわんばかりの日常性であったりします。これが非常にリアルなんですよね。曲の語り手は、あくまでもこの「店」についての感情に寄り添っていろんなことを歌い上げてますが、それだけで大きな時代の流れみたいなものにまで触れてしまっている。結局われわれの日常という者はそれはそれでとてもささやかなものですが、政治とか時代とかとまったく無関係でもいられない。日常や私小説の延長線上に、時には聞きたくもないような政治的・宗教的な問題が横たわっている、ということがよくわかる曲だなー、と感じました。

この曲は実在の店名をあえて明示することでかえってフィクションを演出しそこから共感を取り出すようなつくり、になっています。振り返ってみるとみゆきさんの作品にはたくさんの飲食店が出てきますが、飲食店はこの共感を外から眺めることが出来る装置になってるなと感じます。それらを舞台とした曲を巡る旅にでてみます。

まず思いつくのは名曲「店の名はライフ」です。中島みゆきが学生時代を過ごした北海道にある実在する店を描写した曲です。学生時代の、逃がしどころのない熱量をすくい取ってカンバスに塗りつけたような荒っぽさで、当日の時代感を見事に抽出している名曲と言えます。そして、これは「LADY JANE」とまったく同じ手法だと感じます。「ライフ」という第三者的な店をあえてフィクションとして描くことで、リアルにともなう情感のような部分を歌に乗せることに成功している。そして、それはやっぱり時代や政治とゆるやかに繋がっているということがひしひしと伝わってきます。「LADY JANE」のほうはさすがに老練ともいえるテクニカルな書かれ方をしていて、いっぽうの「店の名はライフ」はまだそこまでの技術は無かったようですが、逆に荒削りの面白さが多分にあります。もちろんどちらが良い悪いと言うこともなく、その時代に生いている中島みゆきの射影を通じて楽しむことができる曲でしょう。

古い曲をもう少し。常連客の目で商売をしているおかみさんの悲しみを描く名曲が、「命日」です。ちあきなおみへの提供曲として書かれたもので、本人の歌唱したものは(ぼくの知る限りでは)流通しておりません。語り手はおそらく常連客、客の支店から女主人の商売ベタさを描写することで、すでに無くなってしまった「息子」の輪郭を描き出します。もしかしたらそこに恋愛感情みたいなものもあったのかな、というさりげなさも含まれていて、これ名曲だと思うんですよね。いまさらだけどセルフカバーして欲しいなあ。もいったん飲食店という第三者にしかなり得ない存在(人格のない店そのもの)に感情を預けることで深みが出ている気がします。

従業員やマスターといったそこで働いている人間も、人間でありながら第三の視点としての色が強いことが分かるのがたとえば「ミルク32」「ふらふら」「相席」「SINGLES BAR」です。この曲たちで歌われるマスターたちは完全に無機質な者として描かれていますが、それが「人間」のかたちをとっていることをには意味があって、語り手の感情を生め止める装置として働きます。「SINGLES BAR」も店やマスターが無機質な第三者として強く意識されています。この曲はひとり者のさみしさを、だれかと出会う装置としての店を使うことでより鋭利に取り出しています。「相席」までいくと語り手すら第三者として外に出てしまい、マスターも物語をそっと動かす神のような存在になっていてゆきついた感じがありますね。

「LADY JANE」は実在の場所でしたが、これは実在の場所を通じて共感を描こうとした結果そうなっただけであって、もちろん書き方によっては実在ではないほうが伝わることもあります。パラダイス・カフェ非実在であることを強く意識させて、そのにおいを前面に纏わせながら、聞き手に共感を誘います。疲れた人の止まり木としての飲食店の要素だけを取り出して、再構築したかのようです。

というように、飲食店という「人間くさいが人間そのものではない」ものに第三者の視点を与えることで、語り手をめぐる感情を聞き手に共感させるようなはたらきをしているのではないか、というのが今回のぼくの旅の思索でした。当然ながら、ひとつのことばで全部の曲を括ることは難しく、なにかを語るたびにこぼれていくものがありますが、それはいつものことです。もちろんその姿は聴く人だけでなく、聞いたタイミングによってもいかようにも変わることでしょう。これまた、いつものこと、なのです。

たくさんのお店を巡る、たいへん楽しい旅でした。では、また。