がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

中島みゆき「ホームにて」を巡る断想

こんな記事を読みました。

jukennsei.com

まあ、ぼくなんかはステレオタイプな人間なので、「道徳の教材に使う」みたいなことを見るとげげっ、って思ってしまうわけでして、みゆきさんの歌は多分に道徳的な面はあるとは認めつつもの、その言葉たちは断定からは遠いところにあって、教える側の能力が強く問われるという意味で全くふさわしくないのではないか、とか思ってしまうのでありました。実際リンク先の記事を見ても、時代・誕生・Nobody Is Rightはともかくとして、「ホームにて」なんてまとめ作者が単に好きだから入れただけじゃないのかという印象もあります。道徳……?

「ホームにて」の解釈については内容的にも異論があります。あ、前もって書いておきますが、ことみゆきさんの歌詞は文字の省略も多く、解釈の余地が大きい。その解釈はすべて読み手の自由である以上、どんなに無理があっても、ある個人がなんらかの解釈を持って歌詞を捉えること自体は誰にも妨げられはしません。ただし、くだんの文章が、あるメディアにて文字として書かれて発信された文章である以上、ぼくはそれに対しての自由に批評するつもりです。

まずはデータから。「ホームにて」は1977年発表の3枚目のアルバム「あ・り・が・と・う」に収録された後、「わかれうた」のB面としてシングルカットされています。この年はぼくが産まれた年でして、当時の状況は知るよしもないわけですが、おそらく「わかれうた」が出た後で知られるようになった歌なんじゃないかな。ところで、他の方の曲ですが「ホームにて」の歌詞を観てると、「木綿のハンカチーフ」がいつも思い浮かぶんですよね。こちらは1975年の曲だそうです。ぼくは歌謡曲に詳しいわけでもないので、「都会に出る」ということのリアリティは、このあたりの時代の空気として普通にあったんだろうなー、という程度の予断に止めておきます。

さて、言及先の文章には、「一見、故郷に向かう電車に乗れない曲に聞こえますが、よく聞くと自分のホームから街に出ていく曲と捉えることができます。」とあるけど、僕にはいまだに「自分のホームから街に出ていく曲」というふうには思えません。文字通り望郷の歌としてとらえています。

その緩い根拠として、冒頭「中島みゆきが単純に駅のホームを表現したいのであれば「プラットホーム」と書くでしょう」と書かれていますが、そもそもプラットフォームをホームと省略するのはそれほど特異な省略でもありませんし、プラットホームのホームはformですからそもそも意味が違います。もっとも作者がそこに二重の意味を意図したかどうかはあまり重要ではありません。実際、書かれた文字が確かにホームである以上、この単語がこの作品をどう見せているかからは逃れられません。「ホーム」という単語を見ていわゆる家のホームを想像するというのはおかしなことでもありませんし、それによってこの歌が、ふるさとの歌である印象をタイトルだけで与えることに成功できているのも確かです。だがしかし、それを認めたとしても「自分のホームから街に出ていく曲」という解釈をとるためには、もう少し寄りかかるべきことばが歌詞の中に欲しいと感じます。書かれた文字を追っているだけでその解釈をするのは、飛躍があるとぼくは感じます。

とまあ、他人の感想にいちゃもんを付けるだけつけても生産的ではないので、「ホームにて」を改めて聞き直して、ぼく自身が感じたことなどを記します。

この歌は素直に、田舎から都会に出てきた者の心境を歌っている、というのでよいと思います。地方と都心の対比なんてものは、交通の便が発達した現在ですら共感を得られるテーマだと思います。そして、都会に何らかの夢を持って出てきた者たち、という構図もむかしから描かれてきたおなじみのテーマでしょう。

この歌に出てくる「街」に帰属する者たちがどこか淡い輪郭を持っているように感じるのは、この歌詞が状況をそのまま描写したのではなく、多分に比喩によって構成されているからではないかと考えます。まず、冒頭この歌には「最終電車」が出てきます。この単語はただの事実を描いているわけではありません。「これを逃したらもう帰ることができない」という気持ちの象徴としての最終電車ということばです。本来、最終電車は毎日あるはずですが、語り手はその度に喪失感を受け取り続けているかのようです。続く「駅長が街中に叫ぶ」描写も実際の光景を描いたのではなく、比喩として書かれていると感じます。駅長は、夢半ばにしてまだ帰れないものたちを強制的に故郷に送り返すことはしません。あくまでも「やさしい声」で帰れる人たちを「誘います」。暖かい車内の光景とはそのまま「故郷に帰ることが出来る人」たちです。窓を隔てて、そこには断絶がある。これが余計に心に刺さります。駅長が「街中」に叫ぶ、と記述しているところも、語り手が置かれているところがいまは「街側にある」ということを強く意識させます。

実際、歌詞の中では語り手が夢半ばかどうかは明言されていませんが、ただ、都会に出たが帰るに帰れない、の意味づけとして「まだ夢半ばなので帰るに帰れない」と解釈することはそれほど飛躍した解釈でもないでしょう。ここで、弱い論拠として「かざり荷物」という素晴らしい単語をあげておきます。この言葉があらわしているものは、「捨てることが出来ないちっぽけなもの」もっといえば、それは「語り手の小さなプライドのようなもの」ではないのでしょうか。都会に自分を縛り付けているものが「かざり」であることを自分でも自覚している、しかしどうしてもそれを捨てることが出来ない。

語り手は、毎日、これが最後のチャンスだ、という思いで生きている。そのたびに、比喩としての「空色の切符」が心の中にどんどん貯まっていくのです。「空色」は故郷を彩る象徴で、「ネオンライト」は都会の象徴ですね。このネオンライト、という言葉には都会が内包する享楽的な楽しさを重ね合わせる意図も少なからずあるように思います。その楽しさ、では帰郷への憧れを消すことは出来ません。そして、この語り手は結局、故郷には帰らないのです。飾り荷物を捨てることが出来ずに、こころが毎日ホームに立ちすくんでいるのに、やっぱり、帰らないのです。帰郷への思いを激しく持ちながらそれでも都会で頑張り続けるちいさな魂が、凄みを持って立ち現れてくるように感じます。やさしく歌っているのでつい聞き流されてしまうんですが、あらためて歌詞を眺めているとほんとうにすごい曲だなと思わされました。ただ、冒頭の記事に立ち返ってそのすごさが「道徳」的なものか、と言われるとやはり違和感がありますね。教材にするのであれば、せめて「国語」の教材であってほしい、なんてことを思った次第です。

さて、みゆきさんは故郷を歌った歌は多くあります。「ホームにて」から離れて、いつものように故郷の描かれ方、そのイメージを駆け足で辿ってみることにします。

似たようなテーマだとたとえばそのままのタイトル「帰れない者たちへ」がまず思い浮かびます。これは夜会『24時着 0時発』で歌われたもの、この夜会もまた「故郷」がテーマのひとつでした。考えてみると夜会には「拒絶された者の悲しみ」を描くうちに故郷の歌になってしまった歌が多くあるように思います。故郷に背を向け、それでも故郷に心がむいてしまう「帰郷群」は夜会『2/2』の再々演で歌われています。夜会『海嘯』もまた、自らのルーツを探る作品とも観ることができます。オルゴールとして流れた「故国」では「わたしの国はどこにある」と歌われ、主人公は拠り所のない遭難者として描かれています。夜会『ウィンター・ガーデン』の「街路樹」は都会に植えられた木に姿を重ねます。「街路樹はどの子もひとり そこで産まれたものはない」。

「永年の嘘をついてくれ」で、「この国を見限ってやるといって出て行って未練がましく代筆の手紙を送りつけてくる友」の構図も、とても良く似ています。「杏村から」でも街と田舎の対比が出ています。「街のネズミは霞を食べて、夢の端切れでねぐらをつくる」この曲また夢を追い求めて都会で孤独に闘うものを描き出しているといえます。きわめつけに「異国」という曲があります。故郷側から拒絶されてしまったという究極の望郷を歌った壮絶な歌、です。

外側から歌った歌としては、夢を求めて飛び出していく若者たちを歌った「小石のように」。夢破れて転ぶように帰ってくる男たちを喪服で出迎える「あぶな坂」、望郷の思いはそのままにたくましく生きているリラという花を歌った「リラの花咲く頃」などという曲たちもあります。こう眺めていると、屈託無く故郷を歌っている「帰省」という曲のほうがむしろ珍しいパターンかもしれません。

切りが無くなってきましたのでこのへんで望郷の思いへの旅を終えたいと思います。それでは、また。