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がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

中島みゆき 夜会『橋の下のアルカディア』

中島みゆき 感想

あけましておめでとうございます。

このブログは読者も少なく更新も少なく、いったい何のために書いているのかも良く分からないものですが、たまーに更新していきます。 さて、自分の中での宿題として夜会のまとめをするというのがありましたので今日はその記事です。

去年というかもう一昨年になるんですね、リアルタイムで舞台は見ておりますが、その1回で全容を捉えられるはずもなく、ただ音楽を浴びて気分良く劇場を後にすることしかできませんでした(毎回のことです)。幸い、この舞台は一発でソフト化されたので、内容をしっかり受け止めることが出来るようになりました。ソフト発売からしばらく経っていますますが、繰り返し見てようやく自分の中でこの作品に対するイメージがまとまってきたので、昨年の舞台の記憶を織り交ぜつつ、この作品に対しての所感をだらだらと記しておきます。

まず、舞台の感想としては

  • 2幕2部直前まで:おおけっこう分かりやすく作ってる
  • その後:やっぱりいつものみゆきさんだったわ(汗)

――という感想でございました。少し前の夜会あたりから繰り返し登場する転生のモチーフが、その根源的な部分はおなじまま、立ち現れ方のみが異なった作品として観ました。

音楽評論家の田家秀樹はアンコールというサイトで『想像を超えたフィナーレは、日本の演劇史上に残るのではないだろうか』なんてことを書いてますが、相当こじれたみゆきファンであるぼくですらこんなこと恥ずかしくて言えません。こんな歪なかたちで表出された表現舞台が一般的な評価を得て演劇史上に残るなんてこれっぽっちも思いませんし、ぼくにとってすれば『橋の下のアルカディア』は演劇作品としておそらく欠陥品であるという評価です。いっぽうで、その評価と共存するかたちでこの作品をとても愛しています。これは、これまでの夜会ほとんどすべてに言えることです。夜会は演劇の文脈としてみられても不幸でしかないと思っております。

ま、他人の評価などどうでも良いですね。話を戻します。

転生というモチーフそのものについて語り出すときりがないのでここではあまり深追いするのはやめておきますが、かといって触れないで進めるわけにも行かないので、表面だけでも追ってみたいと思います。いったん転生という言葉から離れ「想いの呪縛」というキーワードまでテーマを後退させると、かなり昔の作品にまでその範囲を広げることが出来るなあというのを本作で改めて思いました。約束やら後悔やらは、生を超えて鎖を伸ばし、いまここにいる魂を何かにしばりつけます。これは『今晩屋』と本作品でかなり露骨に表現されています。その鎖の末端を主人公たちは「忘れてしまっ」ています。『今晩屋』の呪縛の正体は後悔です。やすやすと我が子を、人売りに受け渡してしまった母の後悔。自分だけが逃げてしまった弟の後悔。修羅の道へ追いやってしまった姉の後悔。下敷きとなった安寿と厨子王の周辺を巡っていたが故に非常に抽象的になってしまった『今晩家』にくらべれば、本作『橋の下のアルカディア』での呪縛の描かれ方は明瞭です。はるか昔の人身御供、そこで交錯する想い、約束が彼らの魂を、現代にまで縛り付けています(『ウインターガーデン』もわかりやすい約束の鎖ですし、『2/2』も流言による呪縛から始まる物語だと言えましょう)

いま「呪縛の描かれ方は明瞭」と書きましたが、中島みゆきという創作者は、昔からの悪い癖(われわれはそれも楽しんでるわけで悪いというのは語弊がありますが)で、ひとつの作品にいくつもの意味を重ね合わせようとするので、明瞭とも見える呪縛はむきだしのままでは提示されておりません。人身御供の転生の話だけだったらどんなにわかりやすかったことでしょう。そこに、国を捨てて死んでいった男の話を重ね合わせます。この部分は本作品で中島みゆき本人がテーマとして言及している「捨てる」という部分に強く寄せられてはいるものの、「思いに縛られている」という通底するテーマとまったく無関係ではありません。国からの命令やその時代の空気、これらもまた後悔の念を伴う鎖となるわけですから。ただし、これら交錯する後悔の鎖を、劇場でたった一回観ただけで完全に理解するのはなかなか難しいと言えましょう。

そもそも、このお話しはすべて比喩でつくられています(この回の夜会に限らないですが……)。『今晩屋』くらいまで抽象的な話になれば観客側もすんなり比喩のお話しだと分かると思うのですが、今回のような理屈やストーリーがある程度あるお話しだと途端に見る側はこれをリアルのものとして誤解してしまいそうになります。ある程度のリアリティはもちろんありますが、リアリティすらも比喩の一パーツに過ぎません。これを実際に起きたことと捉えることはナンセンスだと感じます(なので、本作品の「結末の実現性について」言及するのはぼくにとってはただのジョークです。ジョークを否定することは無粋ではありますが、比喩としての解釈を楽しむ上ではジョークをまともに取り合う必要もありません)。

比喩なので、登場人物達は呪縛によって現実に立ち現れた存在といえます。それを探っていきます。

人見は「水晶占い師」です。まじないによって生を突然断たれ、猫を残して死んでいきました。その無念は、「人柱」で「すがるものに群がる まじないの言葉に 祈る 祀まつる 占う 貢物 人柱」と歌われます。もっと先の未来さえ見られたなら、彼女はそして猫は、死ななくて済んだかも知れません。まじないの言葉に縛られて彼女は占い師として、さまよっています。

天音は「ママ代理」です。あえて代理として描かれています、バーのママ本人であってはいけないのでしょうか。「代理」というのは「かわりのにんげん」です。天音はもともと猫です。主人である人身が生け贄になったとき、人間になりたいと悲痛な叫びを残したあの猫です。あの猫は「ひとみにかわってあげたい」という思いを残して、人間の姿になっていまの時代に流れ着きました。なので、天音は「ママ代理」でなくてはならないのです。

公羊は「ガードマン」です。ガードマンは守る者です。愛する妻である人見を失ったとき、「大事なひとを なぜ守れない」悲痛な叫びを残し死んでいきました。これが彼にとっての呪縛です。なので公羊(くよう)は守る人として現世をさまよっています。羊は貢ぎ物としてのイメージを持っていますから、この名前は公(=村の意志としての)犠牲者、という意味をまとっています。

彼の父が模型店店主なのも意味がありそうです。模型というのは「模したもの」です。古来、人身御供を捧げてきた儀式は、やがてひとのかたちをしたものをかわりに使うようになります。後の時代であれば、ひとを模したもので身代わりを作ることが出来たら、人身本人が死ぬことはなかったかも知れません。そして、模型にはもうひとつの文脈があります。空を飛ぶ飛行機にはひとびとの憧れを伴います。しかし、その飛行機は人を殺すために飛び立っていきました。模したものはほんものに似ていますが、ほんものではありません。人を殺すことのない飛行機としての模型と、人身御供の代わりになるものとしての模したもの、この二つの意味が交差するところに模型店店主として立ち現れてきているように感じます。

店主が出した手紙は「のんだくれのラブレター」です。手紙は紙ヒコーキとなって「ねんねこ」に飛んできます。これは舞台には登場しない「ママ」へ届けられたものと解釈してもいいのではないでしょうか。ここでも紙飛行機という「兵器としての飛行機」の意味を失わせるような表現に思えます。思いを乗せるための羽として、飛行機は新たな意味を持ちます。(ところで、ラブレターに書かれた「緑の手紙」とはなんなのかという疑問を見かけました。ぼくはこれは「蔦のからまる格納庫の扉」だと、舞台を見たときから解釈しています。開ける対象であることと、それがそのまま舞台に緑色とはっきり分かる形で登場すること、手紙の主が格納庫を隠している主体であること、などから、です。でも「緑の手紙」って表現自体がちょっと唐突だよなー)

さて、このお話を解釈するときに「国捨て」を避けては通れません。中島みゆきの作品には、「生まれや育ちの国による呪縛」というテーマの曲が少なくありません。過去の作品で言えば「ひまわり SUNWARD」でひまわりは国境と関係なく咲き誇りますし、「EAST ASIA」で鳩はどんな台地でも生き、柳絮は国境という誰かの決めた境界線をやすやすと飛び越えます。「産声」で「生まれはどこの国」と、人間そのものの本質とは関係ないはずの国を聞きたがる声をとりあげ、「我が祖国は風の彼方」では、誰かの付けた国の名を超越した天空の国を描き出します。その他、枚挙にいとまがありません。人の魂は国という見知らぬ人がすでに決めてしまった境界線に縛り付けられるものではない、という思いが根底にあるように思います。

国捨ての演出は、中島みゆきの作品の中でもずいぶん踏み込んでいるように感じます。公羊は暴漢に追われ、額に傷を負います。包帯の血は赤く滲んで、どうみても日の丸です。これはクライマックスで時空を超えて現れる祖父を前にして、公羊がこの日の丸を投げ捨てるシーンにおいて強烈なメッセージとして立ち現れてきます。ここは、舞台を見たときから、かなり踏み込んだ演出だなと感じました。

しかし、ぼくの解釈はここまで。これが「いまの時代を反映したメッセージである」という断定については容易に想定されるものの、ぼくにはそこに踏み込む気はありません。中島みゆきが「歌でしか言えない」ものは歌として、「舞台を通じてしか言えないもの」は舞台として、あるがままのものとして受け取ることにしています。それをぼく自身の政治的思想を反映するためのよすがにしたくはありません。そこにぼくなりの「思い」はありますが、心にしまっておきます。

んー、だいぶとりとめが無くなってきました。夜会の話をすると、あちこちにダブルミーニングがあったりするので、どうしても時系列順に語ることも出来ないし、テーマも複数のものが輻輳しながら、互いに干渉しているのでテーマ順にも語りづらい。どうしてもとっちらかってしまいます。まあそこがぼくをこの舞台に縛り付ける「呪縛」になっていたりするわけですが……。お読みの方におかれましては何も結論がないではないかとお思いかも知れませんが、「そういうもの」としてご寛恕下さい。(え、「そうゆうものなんて、あるもんか」ですって?)

……今後も夜会が見られますように。