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がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

2014年末 黒かわず句会

俳句 イベント

黒かわず句会がありました。ものすごく久しぶりに参戦。

兼題は

  • 漢字「元」「本」「基」のいずれか
  • 季語「年惜しむ」
  • 漢字「糸」
  • 季語「大根」
  • 緑色しばり

でした。自句の最高得点句は

葬列のつぎつぎに消ゆ大根畑 幽樂坊

ですが、これ類句があるんですよね。

死の使ひ大根畑抜けゆけり 加倉井秋を

類句というほどではないかなーとは思うものの、大根と死の「近さ」自体はすでに読まれているという意味でぼくの句のほうはだいぶ新鮮みが落ちますね。なんかね、大根って死を思わせるんですよね。白くて、やや太いところが、魂みたいな感じがある。これがカブとかになるとちょっと丸すぎて、ゴボウだと長すぎる。あの太くてだらっとした様子が、ちょっと狂気を感じさせるような気がするのです。抜けた後の穴も空虚で、それがたくさんある「大根畑」はこれはもう狂気の場所として認定しても良いでしょう。

で、帰宅してから調べてみると大根自体にやはり死の影はあるようです。「大根の年取り」という新潟や長野で旧暦の10月10日を呼ぶそうです。伝承では「大根の太る音を聞くと死ぬ」そうで、この伝承だけでご飯おかわりが何杯でもいけそうだ。すごいぞ、大根。

この大根を巡ってもうひとつ面白いやりとりがありました。「大根おろし」を題材にした句がありました。ぼくがちょっと思ったのは大根は冬の季語で良いけど「大根おろし」はなんだか、季語感が薄まってるような感じがあるということです。言われてみれば確かにそうかも、というゆるい同意がメンバーからも得られました。大根自体が冬にあってそれをおろしたものであるから、大根おろしは別に冬で良いんじゃないの、っていう理屈はもちろんわかるのですが、なぜか「季語感が減ってる」かんじがするのです。

で、大根おろしの先行句を調べてみました。ふむ、かなり少ないです。が、ないわけじゃない。なので、大根おろしはアウトと言うことはたぶんありません(ぼくも別にアウトだとは思ってないですし)しかし、少ないという事実は、やはりどこか「季節感が減っている」感じが作者たち中になんとなくあるんじゃないかとも思うのですよね。

先に書いたような、白くて太くて、みたいな大根のまわりに浮遊する諸々のアトモスフィアは、大根おろしになると全くなくなって、かわりに大根おろしじゃないと醸せないものが大量に新しく発生してしまう。それくらい異質のものに変容していると思っています。大根おろしの存在形態は、字面上は同じ漢字を引きずっているものの、元の「大根」というものとあまりにもかけ離れすぎてしまっている。それが季節感を減じているような感覚のひとつなんじゃないかなーと思うのです。

いっぽうで、「大根の葉」ってのはどうなんだ、ってこともあるわけです。虚子の有名な「流れゆく大根の葉の早さかな」って句があって、これも大根そのものじゃないです。でもなぜかこっちはそんなに失われた感じがしないんですよね。大根自体を思い浮かべるとき、大根の葉はちゃんとそこにイメージとして描かれるから、さほど遠さはないのかも知れません。葉になった大根は、白い太いなどの質感はすべて失われるけれど、異質なものに置き換わったというよりは「大根から切り離されている」という前提をちゃんと持っているのです。「大根の葉が早い」という言い回しには、大根の根から解き放たれていることが暗黙的に含まれていて、そうなると、ここでは葉しか絵が描かれていないけれど、ちゃんと大根のあの白くて太いある種愚鈍な図体のイメージがあって、その延長として句が成立しているわけです。だから、こちらには違和感がない。

うん、この日はじめて思いついた解釈の割りには自分の中でしっくりきます。

そういうわけで、大根おろし、という言葉を俳句の中で見て、なんとなく不思議な感覚がしたのはたぶんこういうことの総合なんだろうな、と思った次第です。俳句の面白さってこういう本当に細かい感覚だと思うので、ひさしぶりにこういう話が出来てとても面白かったですね。

来年もユルユル続けていきます(こんなのばっかり)