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がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

絵画と超短編

雑記 俳句 中島みゆき 超短編

結論がある話ではないのでだらっと書きます。

美の巨人たち、というテレビ東京の番組の今季エンディングテーマに、中島みゆきの「India Goose」が採用されると聞いたので、ちょっと録画してみてみました(次のアルバムに収録予定なので、一足先に聞けるわけです)

まあ、曲自体はエンディングにほとんどナレーションに重なるかたちでちょっとだけ流れるだけだったので、先行で聞ける! というほどじゃなかったわけですが、番組自体はとても面白かった。この会は踊り子で有名なエドガー・ドガの『カフェ・コンセール レ・ザンバサドゥールにて』という絵画の謎を解き明かす、という回でした。絵画警察というよくわからない設定で謎解きを行うあたり、民放らしいという気がしましたが、絵画の謎解きなんてそもそも鉄板の面白さでしょうから、これくらい柔らかくても問題ない感じです。

この手の「絵を謎解きする」というのは昔からいろんなメディアでなされてきていて、その面白さは上に書いたとおり、ほとんど約束されているようなもの。もちろん、それぞれの謎解きに専門的な濃淡はあるので、詳しい人から見ると「謎解きとしては面白いけど荒唐無稽」なんてことになっちゃってるものがあるにはあるでしょう。僕もそのへんはよく分かりません。「学問を装ったフィクションの面白さはゆるされるのか」みたいなことになると、それはそれで難しい問題なわけですが、今回はそっちには踏み込みません。

それより、ここは思い切り我田引水な超短編の話へ強引に持って行きます。

絵画の凄さはやはり、それが一枚、ほとんど一覧できる状態であることではないかとおもいます。もちろん連作のようなものもありますし、一瞥できないほど巨大な作品も少なくはないのでしょうけれど、やはり、ほとんどは一枚、それも全体を満たせるサイズというのが作品群の主であるでしょう。

この「全体と部分を自由に行き来できる」ことを物語で言えば、超短編くらいがギリギリではないかと思っています。そもそも、文字は前から順番に読むことが主で、なかなか全体を一瞬で意味として受け取ることが難しいわけです。ところが視覚はそれが出来る。

文字の逐次性みたいなものは超短編であっても、もちろん死んでいるわけではありませんが、500文字くらいであれば、時間的には数分のなかにそれを押し込められますから、全体を捉えて部分に戻って、という往復がかろうじて短期記憶の中で行えるんじゃないかと思うんです――いや、短期記憶だと20秒くらいと言うことですから、物語を読むスピードによっては無理か。俳句なんかだとさすがに全体部分の往復は確実にできると言えるのですが。

まあ、短い作品だったり、読む側のスピード如何によってはなんとかできるサイズ、というところまでは後退しても許されると思います。実際、ぼくが超短編を書くときにものすごく気にしているのが、この全体と部分の響き方、なんですよね。

長編であっても短編であっても、そこはもちろん気にしてしかるべきなのでしょうけれど、単純に一言一句一つ一つの選択がすべてシビアに効いてくるサイズと言えば超短編くらいまでではないでしょうか。

美の巨人を見てそんなことを思った次第です。