がくしだったりマイクロだったりすぎもとだったりするひとのメモとか。

謝罪を評価することはヤンキー更生メソッドに抵触するか問題

たまにはこういうことも書いてみる。

先日、Twitterの有名人で、漫画原作者小池一夫さんがこんなツイートをされて、ちょっとした炎上になりました。

小池さんは、その反応を見て、翌日に反省と謝罪のツイートをします。

これのはてなブックマークを見ると、素直に反省できることを評価する方もいれば、「こんなので評価しちゃうなんてチョロすぎる」というような反応や、更生したヤンキーは褒められるってやつか、という反応や、消火のテクニックを褒める方もいますし、反省になってないという手厳しい方もいらっしゃいます。ぼくはこの謝罪そのものがいいかどうかはまあどっちでもよくて、気になったことがあって次のようなコメントをつけました。

小池一夫さんのツイート: "昨日のツイート、反省してます。若者と接することは多くても、若者と暮らしていないので、今の若者の現状が頭では分かっていても、肌の感覚では分かっていな

この流れをヤンキー更正の相似形とするかしないかは、先の行動をミスと捉えるか、悪事と捉えるかの違いかな?(ミスしない人はいないから寛容でありたいが悪事はそうではない)案外その境界は曖昧かもしれません

2017/08/13 19:37
b.hatena.ne.jp

今回のこの流れが、「更生したヤンキー」の話と相似かどうかってけっこう面白い問題だなと思ったんですよね。「更生したヤンキーは褒められる」というのは、何も悪いことをせずに大人になった人はとくに何も評価されないのに、悪いことをしていてそれを反省して更生した人間は過度に評価されるのがおかしい、というようなやつですね。

コメントにも書いたように「自分も含めミスをしない人間はいないので、他人のミスには寛容でありたい」というのは、それなりに受け入れられる立ち回りだと思いますので、ぼくは最初のツイートを、勇み足というかミスと感じて、それを反省している謝罪している行動については一定の評価ができるんじゃないかと思ったんですよね。たぶん更生したヤンキーの話を出してるひとはそうではない。なんというか、更生したヤンキーの件そのものについてはたしかにそうだよなあ、とつねづね思ってるので、ぼくのなかで二者にはなんらか違いがあるようだなと言うのが上述のブコメです。ただ、よく自分でも分からなかったので、玉虫色のブコメになった。

つまり、ヤンキーが過去にしでかしてきたことは明確に悪事である(世間的に許されている行為でなく、かつそれについて当人にも認識がありつつ止めることはしなかった、と推測される)が、この小池センセイのしたことはただのミスで、ヤンキーの更生とは違うものだという考えがぼくの中にあったんじゃないかと思うわけです。そこまで考えてから、次に気になるのは「わかさゆえのあやまち」という言葉があるように、ヤンキーのしでかしてきた悪事がミスと完全に分離できるものなのだろうか、ということです。逆もそうで、悪意はないだろうけど小池先生のやったことも、「たいした根拠もなくある世代を過度に貶めた」という悪事であると解釈できなくもない。悪事に当人の認識が必要かどうか、というところではたぶん違いはあると思うけれども、若く思慮が浅い状態での当人の認識という者はたかがしれているので、そこは同じようなものともいえるんじゃないかという思いもまたあるのです。

と、そこまで考えて寛容であることと、評価することは別だという考えであればおかしくはないか、と思い当たります。「更生したヤンキーについては取り立てて問題視はしないが、別に評価もしない」という良い方は成立します。ただ、そうなるといっさいの謝罪を評価できなくなりかねません。謝罪と言うからには何かをやらかしたわけです。わからないけど、とにかく当人にとって「わるかった」と認識していることをやってそれを謝罪している構図ですから、あらゆる謝罪に対して、更生ヤンキーメソッドが発動できてしまう。うーん、そうなるとさすがにやり過ぎな気がするんですよね。だからどっかに境界を設けた方が良さそうです。ただ、どこまでがやりすぎじゃないのかという線引きも自分の中でははっきりしません。なんというかやっぱり最初になされた行為の悪意の濃さとか、被害者の多さとか、被害回復のコストとか、まあ総合的に見て線を引くしかないし、そうなると、やはり小池先生の発言は別にミスの範囲で、謝罪自体をそれなりに評価するので良いんじゃないかと思えてくるのです。

線引きが曖昧といえば、そもそも評価するってのはいったいなんだろうかって思い始めてきました。人が何を評価するかをコントロールするのって難しいというか、まあ、もともと悪いことしてたんだから評価下げないと、という意見は意見で別にいいとおもうんですが、評価を下げない状態をおかしいといいきるのも無理があるというか、それってそもそもおかしいといえるだろうかという疑問があるんです。

書いていて思い出しましたが、これまたTwitterで、最初から席を譲るつもりで立ってる人間は褒められないのに、座ってて席を譲った人間は褒められるのが納得いかないという話があって、これに対しては「褒められたいなら一回座れば良いのでは。褒められたくてやってるのかな」という感想だったんですが、まあ似たようなことで、この問題は仕方ないと思ってるんですよね。人が人を評価するってことは「そういうもの」でしかなくて、ようするに評価に値しそうな要素を他人に見える形で提示することが評価につながる、というだけのはなしで、やりたきゃそうすればいいし、やらなきゃそうならないだけで、それがおかしいといわれてもそういうものではないかという気もするんです。いやほんと、毎日、穏便に過ごしているよりも、多少波風を立たせながら生きていく方がなんか評価されちゃったりするのは心情的に納得いかない、という意見には共感はしますよ。しますが、「そういうもの」だといわれればそういうものでしかない気がするんです。だって現実的に無理だもの。

うーん、結局なんだろう。

ひさしぶりに外部に言及するようなことを書いてるうちになんだか何がいいたいのか分からなくなってきたけど、まあ、ぼくは波風も立てますが別に評価もされないという悪いとこ取りみたいな人間なので、どっちも関係なさそうです、という話を最後にして筆を置いておきます。かなしみ。

ファイアーエムブレム Echoes もうひとりの英雄王(ニンテンドー3DS)

書きたいことが山のようにあったんですが、本業がめちゃくちゃ忙しくてなかなか筆をとることが出来ませんでした。というわけで、めちゃくちゃ忙しかったのでクリアまで辿り着いてないのですが、隙間時間に少しずつやっていたゲームの感想を置いておきます。

この「ファイアーエムブレム Echoes」はリメイクです。もともとは「ファイアーエムブレム 外伝」。1992年3月14日にファミコンのソフトとして発売されたもの。当時ぼくはシリーズ最初のファイアーエムブレムにハマって、この外伝にも飛びつきまして、かなりこちらにもハマりました。とはいえ小学生のやることですから、あまり難しい縛りプレイなどはしてません。当時から、リセットをしてレベルが上がったときの成長を調整するというワザがありまして、これを使って最強の聖女を作り、聖女無双した、くらいです(聖女はシスターからのクラスチェンジ先なのですがリザイアという敵のHPを吸い取る魔法で攻撃をします。上手く育てるとダメージを自動で回復しながら戦い続けてくれるのです)。とはいえ、小学生にしてはかなり長く楽しんだと記憶しています。

というわけで、ほとんど詳細の記憶も無くなったいま、これがリメイクされると聞いて、しばらくぼくもファイアーエムブレムからも離れていたんですがひさしぶりに購入してプレイした次第です(旧作のリメイクには手を出してましたが、新作の覚醒・ifあたりは気にしつつもスルー、面白いに決まっているけど時間が取られるので敬遠していた)

半分は過ぎた当たりくらいまでは進めました。ストーリーはかなり暗いんですがこれは安定の面白さです。よいです。

システム面でも不満は少ないです。今風に、全ユニットにボイスが付与されてセリフからなにからフルボイスですが、どのキャラもとてもよく合ってます(村人キャラは、キャラクター性を強くするためか、リメイク前とけっこう設定を変えてきてますが、どうせ性格を変えるなら同じ名前が別シリーズでかぶってしまうキャラの名前はミドルネーム付けるとか、名前から変えても良かったと思うんですけどね)。行動時にボイスが一言はいるのは、ファイアーエムブレムヒーローズからの逆輸入的な考えかな、と思いますが、あの仕組みはキャラクターをより生き生きと感じられて、けっこう良いと思います。支援効果も支援会話もそんなに多くはないですがちゃんとあります。メイとボーイ、グレイとクレアの会話なんてどっちもお気に入りです。エフィの愛が重すぎてヤンデレ感出してきてるのも現代的な感じがありますな。

ところで、当時、好きにプレイするには必須だった魔剣士ループというのがあって、これは魔剣士という職業にクラスチェンジするとさらにそこからさらに村人というベースのクラスに戻れ、これはいくらでも繰り返すことが出来るという仕組みです。これを最初からやっておくとゲームバランスなんてあったもんじゃないのですが、あえて残してあるのがとてもよかったですね。好きに育てて好きに進められる、これが外伝の面白さだったのです。DLCでより成長をコントロールしやすいアイテムやダンジョンを出してくれているので本編をじっくりやりたいひとはそのまま、こだわって成長とかをさせたい人は課金という感じでしょうか。これ自体もぼくは悪くないと思ってます。即、課金しましたよ。

もちろん不満もなくはないです。まずは、マップですね。旧版のマップを割と忠実に採用しているのか、バトル中のマップの楽しさがあまりないです。なんというか、だらっとしたマップが多すぎて、あんまり戦略を考える感じがないのですよね。このぽつんとある森がー、とか、ここはあえて初手はさがらないと苦しくなるマップだ、とかそういう細かい作戦はあまり関係なくて、ただちょっと気をつけて前進していくだけのマップが多い印象です。ファイアーエムブレムはそういう部分でも進化してきたゲームなので、リメイクするときにそこは手を入れてしまっても良かったんじゃないかなーと思いました。弓兵が基本的に近距離攻撃にも対応できてしまうのも他のシリーズと齟齬をきたしている印象で、これもおもいきって今のシリーズと同じようにしてしまっても良かったのでは(バトルバランスの調整が全体にわたって必要になりますが、どうせバランス調整してるでしょうに)。

とまあ、不満もゼロではありませんが、全体的になかなか長く楽しめる良作ではあると思いました。

「風の笛」をたずさえて ~ささやかによりそうものたちへ~

「風の笛」はアルバム『常夜灯』の一曲です。

中島みゆきの歌には人間のもついろんな性格の側面を取り上げ、それを丁寧に扱ってくれることがよくあります。この曲は、誰にでもあるであろう「言いたいことをつい飲み込んでしまう」行動を、肯定してくれる曲です。

ぼくは『真夜中の動物園』あたりから、みゆきさんは自分の「らしさ」をあえてひとつだけ尖らせて曲を作ってるように感じることが多くなりました。毎年アルバムを出していくペース走り続けてきた歌手ですから、おそらく手癖で楽曲が書けてしまうこともあるでしょう。正直、ファンとしてはそれでも実は十分楽しめるわけ何ですが、その楽曲の「らしさ」をあえて過剰な形でいじくりまわすという試みをし始めたように思うのです。

「風の笛」でいえば唐突な口語口調です。

ええかげんにせいよ たいがいせいよ

という叱咤が入りますが、この口調はこの曲想そのものからは導かれません。おそらくはいくらでも綺麗事めいて作ることが出来たこの曲を、地に足に付いたところまで引きずり降ろすための、過剰な口語体がここにあるように思います。

「風の笛」では「何も言わなくてもいい」「代わりに風の笛をおまえにあげよう」と相手に寄り添う曲ですから、実際はこの叱咤の言葉だけみるといささか強すぎるようにも思えます。しかしながら、これは気の置けない仲間に対して黙り込む理由をたずねあぐね、結果的に粗雑にかけるしかなかった言葉として、二回繰り返され、おまえがおまえの意志で黙るなら、仕方が無いという、寄り添うものとしての覚悟を演出するためのことばです。なので、これは動かないのです。

さて、このブログの中島みゆき関係の記事として毎度のことですが、今回も旅に出ることにします。「風の笛」を出発点として、「よりそうもの」の消息を辿ります。

「風の笛」における寄り添うものは性を持ちませんから、家族であっても友人であっても恋人であっても、歌い手とそれを聞くものの関係であっても成立します。それを恋人の関係に少しだけ寄せた歌が「私の子供になりなさい」です。「あなたが泣くときは 私は空を見よう」。このセンテンスが出てくるとそこから連想されるのは、ヒット曲「空と君のあいだに」です。「君が涙の時には 僕はポプラの枝になる」この曲は、犬の視点で描かれている曲だと言われています。直接のコミュニケーションができない関係において、寄り添うものは寄り添うことに価値があります。

寄り添うものは見守るものです。この動物と人間の関係は夜会「ウィンターガーデン」と「橋の下のアルカディア」でも顕著です。前者は犬、後者は猫、どちらも寄り添うものとして約束に縛られてしまったものたちでした(そういえば、「海嘯」で妻子を日本人に殺されて言葉を失った医師に寄り添うのは大きな犬でした)

そもそも中島みゆきの歌は、とくに近年、一歩引いてリスナーの感情を肯定するような曲想が増えてきているように感じます。たとえば、コンサートツアー『一会』で歌われていた「MEGAMI」は苦しんでいる聞き手をそっと「許す」曲です。「飲みこみすぎた 言葉が多過ぎて肺にあふれて 心をふさぐ」というセンテンスは、「風の笛」の「言えないこと飲んで溺れかけている」を思わせます。「背広の下のロックンロール」も曲調こそ明るいですが、隠している感情に理解を示す曲という意味で「風の笛」と同じニュアンスを感じます。

ところで、寄り添う、という言葉そのものの曲があります。「寄り添う風」。この曲は「相手を傷つけてしまうために離れていく」という、これまた中島みゆきによく見られるモチーフの延長としての寄り添うものなので、ここまでにあげてきた曲とは寄り添うものとしては少しことなる側面を持つように思います。このモチーフはまた別に追いかけてみたいと思います。